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金曜日

Dr.片山晴子

高校野球取材や大食い番組等のメディア出演を行う東京大学医学部医学科卒の脳神経外科認定専門医の医学博士。ドイツ在住。
2018/01/19

「カヌーでドーピング」から連想するドイツの金メダリストの写真、ノルウェーのレジェンド、そして手元のドリンクボトル

今年の1月9日、驚くべきニュースが日本を駆け巡りました。カヌー・スプリント競技で、現役選手がライバルである他選手の飲み物にドーピング薬物を混入したという事件です。2年半後の東京五輪を34才で迎えようという鈴木康大選手(32)は、カヌー・スプリントのカヤック4人乗りというカテゴリーにおいて自らの代表選出に危機を感じたことから、昨年9月の日本選手権の際、よりによって自分を慕っていた若手成長株の小松正治選手(25)のドリンクボトルに本人の目を盗んで禁止薬物である筋肉増強剤を混入、これにより小松選手は実際にドーピング検査で陽性となり、4年間の暫定資格停止処分を受けて今に至っていました。幸い、鈴木選手の告白により小松選手の処分は解除されましたが、鈴木選手が今回発覚した飲み物への禁止薬物混入以外にも現金やパスポート盗難に中傷メール送付したりパドル(櫂)を隠すなどの嫌がらせ行為も併せて行っていたことが分かっており(参考サイトA)、地元開催のオリンピックに対する強い思いが裏にあることは想像できるものの、ここまでエスカレートしてしまったスポーツマンの心の闇のあまりの深さに、スポーツの現場の混乱は言うに及ばず、お茶の間までもが衝撃に打ちひしがれているかのようです。

そもそもドーピングといえば、自らのパーフォーマンスを向上させるために自らに投与するというのが一般的でこそあれ、他者を陥れるために禁止薬物が使用されることは過去に全く無かったわけでもないのでしょうが、ここまで大きく報道されたケースは珍しく、まるで小説か映画のようです。しかも、以前の当コラムでも取り上げた世界中で話題のロシアではなく(→ドイツの五輪放映権トラブルとロシア選手団の派遣禁止が問いかけるオリンピック中継の存在意義)、これまでドーピング関連のニュースとはほとんど縁がなかったこの日本で起きただけに、計り知れないインパクトがありました。

なお、私がこのニュースから真っ先に連想した話は、おそらく日本の方々には全く馴染みがないことでしょう。私の場合、一昨年のリオ五輪をドイツで観戦したこともあり、「カヌー界でドーピング」と来れば反射的に連想してしまったのが、下の写真にまつわる騒動でした↓。

 晴れ渡った青空に浮かぶ白い筋のような雲、満員の観客席…。美しきリオの空の下、首からメダルを掛けた3人の若者が晴れやかな笑顔を見せています…って、ん?確かに中央の男性はGERMANYと書かれたグレーのジャージ姿で左手に金メダル、右手はおそらくこの写真を撮るのに使用したスマホを自らにかざしているに違いありません。その右側には、緑地のジャージで左胸にブラジル国旗を模したプリントが見える男性が左手に銀メダルを持ってニッコリ笑っています。しかし、左端を見て下さい。右手に銅メダルを持った紺地に水色のジャージの男性ですが、その顔は真っ黒に塗りつぶされているではありませんか!

これは同じカヌー・スプリント競技でも前述のカヤック(パドルの両端にブレードがあり左右交互に漕ぎながら進む)ではなく、パドルの片側にだけブレードがあり艇の片側だけを漕いで進むカナディアンという競技の方で、2016年リオデジャネイロ五輪のカナディアン1人乗り1000mで優勝したドイツのセバスティアン・ブレンデル選手(Sebastian Brendel)のフェイスブックに掲載された写真です(参考サイトB)。2016年8月18日の投稿では、写真の横に辛辣なコメントが英語とドイツ語で併記されており、ブレンデル選手の煮えくり返った腹の底からの激怒ぶりがありありとうかがえる内容でした↓。

(英) I have to update my photo from last Tuesday.  I am furious and I hope that for these kind of people there is no place in sport.
(独) Ich muss mein Foto von Dienstag aktualisieren.  Ich bin wütend und hoffe das es für solche Personen keinen Platz mehr im Sport gibt.
(筆者日本語訳) 先日火曜日にアップした写真を、差し替えなければならなくなりました。オレは今、怒りに打ち震えている!今後のスポーツ界において、この手の輩の居場所が一切無くなることを望む。


少し補足しましょう。写真中央の金メダリストのブレンデル選手(当時26才)にとって、今回のカナディアン1人乗り1000mは前回のロンドン五輪に引き続く連覇、そして4日後のカナディアン2人乗り1000mでもヤン・ファンドライ選手(Jan Vandrey)と組んで2個目の金メダルを獲得。その功績とスポーツマンの模範たる姿勢を買われ、閉会式ではドイツの旗手も務めました。

その右の緑色ジャージの銀メダリストは、地元ブラジルのイサキアス・ケイロス選手(Isaquias Queiroz dos Santos)(当時22才)。リオ五輪に出場のブラジル人選手には日本では考えられないような波瀾万丈の人生を歩んできた人が少なからずいると以前の記事で取り上げたことがありますが(→リオ五輪特集(8)…貧民街(ファヴェーラ)からスター誕生!バトミントンのブラジル版・親子鷹物語)、この選手も負けてはいません。3才で生死をさまよう全身大やけど、5才で誘拐されるも無事救出、10才で転落事故により片方の腎臓を失う…(参考サイトC)。今生きていること自体が奇跡、今からでも聖書に追加で収載してほしいようなエピソード満載(笑)というこのイサキアス青年は、リオ五輪ではブラジルのカヌー界初となるカナディアン1人乗り200mでの銀メダル獲得を皮切りに、カナディアン1人乗り1000m銀の4日後にもカナディアン2人乗り1000mで銀メダルを母国にもたらしました。五輪での一大会3個のメダル獲得はブラジル人として史上初の快挙で、今大会きってのヒーローの1人だったと言えます。もっとも、選手本人は全く悪くありませんが、地元開催の五輪の観衆の熱狂的応援はやや一方的なものだったようで、棒高跳びでフランス人選手がブラジル人選手に敗れたケースもあり、「(ブラジル人選手のライバルとなる)選手にブーイングするような観衆を残念に思う」と、ブレンデル選手が閉会式前のZDFインタビューで苦言を呈していたことも思い出します。

そして左の、銅メダルを手に顔を塗りつぶされている紺と水色のジャージの男性が、モルドバ共和国のセルゲイ・タルノフスキ選手(Serghei Tarnovschi)です。このモルドバの青年はリオ五輪銅メダル獲得当時は19才でした。2013年まではウクライナ代表、2014年以降モルドバ代表として活躍、2014年ユースオリンピック金メダリスト、2015年世界選手権銅メダリスト、2016年欧州選手権銀メダリストでもあります。さらなる輝かしい未来が待っていると思われた期待の星でしたが、2016年8月16日の本番で晴れて銅メダルを獲得して表彰式でブレンデル選手の写メに晴れ晴れと納まったかと思ったら、翌々日には過去のドーピングが発覚し暫定資格停止と4位のロシア選手の繰り上げ銅メダルが発表されました。理由は2016年7月8日採取の尿サンプルから禁止薬物の成長ホルモン放出ペプチド(GHRP)が検出されたためで、メダルはく奪の一報を受けたブレンデル氏の怒りのフェイスブック投稿につながった次第です。

その後、彼のドーピングは確定し、4年間の資格停止処分が下りました。つまり、リオ五輪の記録はすべて削除、2020年7月までは試合に出場できないということです。現在20才のセルゲイ選手は処分解除時点ではまだ23才という若さなので、その後にクリーンな競技生活を続けることが出来たなら、2020年東京五輪こそ予選日程の兼ね合いで間に合わなかったとしても、その次の2024年パリ五輪に出場できる可能性は十分あります。

しかし、今年発覚した日本のドーピング事件の場合はそうはいきません。鈴木康大選手の場合、日本アンチ・ドーピング機構(JADA)からの資格停止処分は8年で、これだけであれば40才として迎える2025年12月には競技に復帰できることになりますが、実際は日本カヌー連盟から除名される見通しで、実質的にはこれが競技人生の終わりと考えてよいでしょう。

なお、リオ五輪代表入りを逃したことで一度は引退した鈴木選手が東京五輪をラストチャンスととらえて現役復帰した理由として、インタビュー等でさかんに挙げていたのが「ロンドン五輪の金メダリストが36才」という事実です。この当時36才だった金メダリストとは、ノルウェーのエイリク・ヴェラス・ラーセン選手(Eirik Verås Larsen)(参考サイトD)です。1976年3月26日生まれで、専門は鈴木選手と同じカヤック一人乗り1000m。もっとも、ラーセン選手は早くから国際舞台で頭角を表しており、2004年アテネ五輪金(28才)→2008年北京五輪銀(32才)→2012年ロンドン五輪金(36才)という五輪での戦績だけ見ても、ロンドンでいきなり大きく伸びた遅咲きの選手とはとても言えません。しかも二人乗り1000mでもまた、2000年欧州王者(24才)→2001年世界王者(25才)→2004年アテネ五輪銅(28才)という実績があります。これぞまさに、「カヌー・スプリント界のレジェンド」でしょうか。34才での五輪初出場を狙っていた鈴木選手とはかなり話が異なるようにも思えますが、日本のみならず世界中で、ラーセン選手が三十路を大きく超えたカヌー界のアスリートたちにとって大きな希望の光となったことは想像できます。

しかし、ここで思い出すのが、先程のブレンデル選手が怒りに打ち震えつつ投稿した、「この手の輩の居場所が一切無くなることを望む」という激しい文体です。この時のブレンデル選手が今回の鈴木選手のようなケースも想定したのかは定かではありませんが、少なくともこの事件により、鈴木選手の居場所はカヌー界には永遠に無くなってしまいました。そして、このニュースの余波として、スポーツの現場に選手同士の強い不信感が残されたという話は意味深です(参考サイトE、F)。中でも、参考サイトFにはJOC関係者のコメントとして、このような発言が紹介されています(以下、引用部は青字、強調は筆者):

「人間ならば誰でも大なり小なり奥底にある“闇”の部分が出てしまった。普通ならば『やってはいけない』という理性が働くから、こんな愚かなことはやれるはずがない。ところが、この騒動では人間の理性によって起こるはずがないと思われていた『防波堤』が完全に決壊してしまったのだ。今後は第2、第3の鈴木選手が現れる前に我々は策を講じなければいけない」

また、同サイトでは、中学・高校の部活の現場からの声として、このような例にも言及しています:

「ある高校のスポーツ部活動で使用する飲料用のマイボトルに選手たちが“何か混入されるかもしれない”と過剰に神経を尖らせるようになった。」
「同じ高校のチーム内にいるライバル同士の部員が今回の騒動をニュースで知った後、なぜかお互いが口をきかなくなって距離を置き始めた。聞き取りをしたところ、それぞれが『カヌーの鈴木みたいに、こいつはオレをどうにかして落としてやろうと思っているに違いない』『こいつこそ自分の飲料水や食べ物に何か変なモノを混入して、自分の足を引っ張ろうとしているに違いない』などと語り、疑いの目を向け合っている。」

この鈴木選手のニュースを最初に目にしてからというもの、私自身、仕事先で昼休み休憩などで席を立つ際、これまではドリンクボトルや口の開いたペットボトルなどを置いたまま外出していたところを、少なくとも飲食物は全て持って出るようになってしまいました。これは私の場合、仕事先を信用していないなどという意味は全くなく、単に今回の報道を機に無意識のうちに習慣化されて今に至っている、というだけの話です。

思えば、かつて『相棒』というドラマの中で、捜査一課の伊丹刑事があわや毒殺されかかった、というエピソードがありました。昼休みに伊丹刑事が行きつけのラーメン屋でカウンターに備え付けの生ニンニクを取ろうとしたら、その直前に同じものをラーメンに入れた別の客が亜砒酸による砒素中毒で急に苦しみ始めた…という話でした(Season8、第15話「狙われた刑事」)。通報が早かったおかげで被害者は幸い一命を撮り止めたものの、その毒物混入の犯人は伊丹刑事に強い恨みを持っており、その行動パターンや行きつけのラーメン屋を事前に調べ上げた末の犯行であり、直前に別の客が邪魔に入ったことで人違い殺人未遂となったのでした。このオンエアに強く感化されてしまい、私はしばらくの間、外食の際に備え付けの調味料や漬物などに手が出なかった時期がありました。しかし、これは現実のニュースではなくドラマの話だったので、いつの間にか忘れてしまって平素と同じ日常が比較的早く戻ってきました。

この現代社会にあって、見も知らぬ赤の他人から飲食物を提供されるケースが全くない生活を送っている人はほとんどいないのではないかと想像します。裏を返せば、他者への信頼が全くなくなれば、現代社会はそもそも成り立たないのです。「誰かが何かを混入している可能性がある飲食物や、その成分が分からない医薬品などには、一切手を着けてはいけないと教わってきた」というのはトップアスリートの基本中の基本だと、今回の事件報道に際して多くの元選手がコメントを寄せているようです。しかし、兼好法師のような山で暮らす世捨て人や仙人ならいざ知らず、特に現代の都市化されたライフスタイルを送る人が多い日本社会においては、「自己防衛を」と言われても限界があります。

ドリンクボトルや口の開いたペットボトルは放置せず常に持ち歩く…そんな習慣も、アスリートでなければ面倒くさくなって数か月後には忘れてしまったとしても、日常生活には大した支障はないでしょう。マラソンの給水場なども含め、スポーツの現場でのドリンク置き場の監視は、今後いっそう強化されることでしょう。しかし、人々の疑心暗鬼はいつまた何時、何かのニュースを契機に剥きだしになるか分かりません。そのような現代社会の中、自分の身を守るためには何が出来るのか、改めて一から考え直す機会となった今回の事件でした。


<参考サイト>
A) 日刊スポーツ(2018年1月12日):カヌー鈴木康大の妨害行為、現金隠しや中傷メールも
https://www.nikkansports.com/sports/news/201801110000733.html

B) Facebook - Sebastian Brendel
https://www.facebook.com/SebastianBrendelofficialFanpage/photos/a.337250009695524.85198.337222626364929/1084183038335547/?type=3&theater

C) Globo(2016年8月14日):"Sem rim", vaidoso, fã de arrocha, arteiro: 10 fatos sobre Isaquias Queiroz
http://globoesporte.globo.com/olimpiadas/canoagem/noticia/2016/08/sem-rim-vaidoso-fa-de-arrocha-arteiro-10-fatos-sobre-isaquias-queiroz.html

D) Wikipedia - Eirik Verås Larsen
https://en.wikipedia.org/wiki/Eirik_Ver%C3%A5s_Larsen

E) 日経新聞電子版(2018年1月9日):選手、禁止薬物混入事件の背景にあるもの
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25457150Z00C18A1000000/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25457150Z00C18A1000000/?df=2

F) ITメディア(2018年1月12日):赤坂8丁目発 スポーツ246:カヌー騒動の波紋が、学生にも広がり始めている(2/3)
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1801/12/news073_2.html

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