2015/03/27
神村学園から敦賀気比まで…高校野球定番応援曲「ジンギスカン」は移民大国ドイツの縮図!
以前のコラムで取り上げたドイツの2024年五輪招致の候補地選定ですが、ここ数週間ベルリンかハンブルグかでドイツメディアが狂騒状態でしたが、結局3月21日にハンブルグに決まりました(→目指すは「五度目の正直」!ドイツでも始まった五輪招致活動の前哨戦)。五輪招致といえば、この記事が掲載される3月27日は世界フィギュアスケート選手権も中国・上海で開催中のはずで、以前の当サイトで”熾烈な五輪招致前哨戦”としての側面を紹介したばかりのフィギュアスケートのペア競技の結果も既に判明している頃かと思います(→フィギュアスケート四大陸選手権は2022年冬季五輪招致「BEIJING vs. ALMATY」の前哨戦だった?!)。国家の威信をかけた中国ペアの世界制覇は成ったのか?さらにはカザフスタンへ初の五輪を呼び込む切り札とされる男子シングルのデニス・テン選手(カザフスタン)のショートプログラムの出来やいかに…!以前のコラムも参考に、是非とも注目していただければと思います。
なお、このコラムの掲載時期は、ちょうど第87回選抜高等学校野球大会とも重なっており、今週のコラムのテーマにフィギュアと高校野球のどちらを採用するか大いに悩みました。しかし、当コラムを執筆中の大会第3日目(3月23日)にたまたま選抜大会の中継を見ていたら、第1試合の敦賀気比(福井)と第2試合の神村学園(鹿児島)の応援席から奇しくも同じ曲が聞こえてきたので、両校に敬意を表して今週はドイツの往年の大ヒット曲であるこちらのグループのこの曲について解説することにします↓。
いかにも70年代な映像で、背景には「友君」などという何語かも怪しげな漢字が見えます。6人組のこのグループ、ご存じでしょうか?これは70年代から80年代前半のディスコブーム時代にドイツで一世を風靡したDschinghis Khan(ジンギスカン)(英語圏および日本ではGenghis Khanと表記)という6人組です。名前はあのモンゴルの英雄から取っており、ここで歌われている曲のタイトルもこれまた同じ「Dschinghis Khan(ジンギスカン)」です。やや年配の方であれば、「♬ジン、ジン、ジンギスカ~ン�♪」というサビ部分に小っ恥ずかしいような懐かしさを憶える方は多いのではないかと思います。現代の高校野球シーンでいえば、今大会にも出場している神村学園(鹿児島)のブラスバンド部がチャンス時に演奏するチャンステーマとして全国的知名度を誇り、特に10年前の2005年の選抜大会での同校準優勝を機に、今やすっかり神村学園の代名詞のような曲となっています。ドイツ人なら知らない人はいないこの曲ですが、日本では神村学園ファンに限らず、これがドイツの曲だということを果たしてどれほどの人が知っているのでしょうか?
ジンギスカンというグループはそもそも、1979年にユーロビジョン・ソング・コンテストという国際歌謡祭に参加する目的で、辣腕プロデューサーのラルフ・ジーゲル氏の思いつきで結成されたのだそうです。中央のダンサーのド派手なパーフォーマンスにメンバー全員のコテコテの衣装というスタイルは、当時としては大いに斬新かつ先進的とされ、後に日本に登場することになる「米米CLUB」の原型を想像させます。また、冷戦真っただ中で海外旅行もままならなかった当時の時代背景を逆手に取り、「マチュピチュ」やら「サムライ」やら「ヒマラヤ」というように、アルバムを聞いているだけで世界を股にかけたような気にさせてくれる異国情緒あふれるタイトル、さらにキャッチーで覚えやすいメロディーにより、ドイツ全土はもちろん世界中にファンを広げていくことになったのでした。
センターポジションを占める「歌わないダンサー」として活躍したのは、南アフリカ出身でバレエダンサーとして渡独して実際にミュンヘンのオペラハウスで踊っていたルイ・ポットギーター(Louis Potgieter)です。参考サイトに挙げた往年の動画を21世紀の現代の視点で見直しても、背は高いわ手足は長いわ…というだけにとどまらない、出てきただけで目を奪われてしまう圧巻のオーラがこの人にはあります。今の時代に匹敵する人はいないのではないかと思われるほど、その抜群のカリスマ性には驚かされます↓。
日本でも「魔王様」「ルイ様」などと呼ばれて親しまれていたルイ・ポットギーター氏ですが、その華麗なるステージ・パーフォーマンスからクイーンのフレディー・マーキュリーを連想した方、鋭いです!実はこのルイ様、あのフレディー様と同じAIDSにより、1993年に41歳の若さで惜しまれつつこの世を去りました。
そんなカリスマ魔王様の周囲を固める男女5名のプロ歌手をさらにかき集めてのデビュー曲「Dschinghis Khan(ジンギスカン)」(1979)は、お目当てだったユーロビジョン・ソングコンテストこそ4位に終わったものの、むしろそれ以降に一気に人気に火がつき、ドイツチャート29週1位というビッグヒットを記録。さらに当時間近に迫っていたモスクワ五輪をイメージして作られたという2曲目のシングル「Moskau(邦題:めざせモスクワ)」(1979年、最高位3位)(ただし西ドイツはこの五輪をボイコット)、3曲目「Hadschi Halef Omar(邦題:ハッチ大作戦)」(1980年、最高位7位)もヒットとなり、これら3曲は今でも日本のカラオケボックスに行くと全機種に収録されており、誰でも歌うことができます!機会がある方は是非チャレンジしてみて下さい↓。
(プレミアDAMより。左が「ジンギスカン」、右が「めざせモスクワ」。なお、CrossoやJOYSOUNDはジンギスカンの他曲をさらにたくさん収録しているので見比べてみて下さい)
上はDAMのカラオケ画面ですが、作詞作曲としてR. Siegel(ラルフ・ジーゲル)(下写真左)とB. Meinunger(ベルント・マイヌンガー)(下写真右)が連名で記載されています。しかし、実際には彼らの作品の多くは曲をラルフ・ジーゲル、詞をベルント・マイヌンガーという役割分担のもとで製作されています。作曲者のジーゲル氏は70年代屈指の”ブーム仕掛け人”として、今風に例えるなら「ドイツ版・秋元康」という形容がピッタリかと思いますが、作詞のマイヌンガー氏も負けず劣らず風変りなプロフィールの持ち主で、何と正真正銘の「農業博士」、しかも「元・ミュンヘン大学付属経済研究所研究員」とも「経済学者」とも言われる身分から作詞家へと転身した個性派です。ジンギスカンの一連の曲が表現する壮大な世界旅行ないし時間旅行を思わせる世界観は、この異色の経歴なればこそ紡ぎ出すことができたのかもしれません。
(左:ジンギスカンの生みの親、ラルフ・ジーゲル。右:ミュンヘンの自宅で幾多のゴールドディスクの前で写真におさまるベルント・マイヌンガー)
さらに他のメンバーも紹介しましょう。これも豆知識ですが、6人組のジンギスカンの中には男女一人ずつの2名のハンガリー人が在籍していました↓。
一人目のハンガリー人はこちらの男性、レスリー・マンドーキ(Leslie Mandoki)です。1953年ブダペスト生まれのドラム・パーカショニストである彼は、22歳だったブダペスト音楽学校の学生時代、政府の学生運動弾圧から逃れるために他の芸術家数名と一緒に1975年に国外逃亡、オーストリアを経てドイツに辿り着きました。そして、ミュンヘンでスタジオミュージシャンとして働いていた際に前述のラルフ・ジーゲル氏に見出されてグループ「ジンギスカン」加入、上の写真にあるような奇抜な恰好で歌やダンスも披露することになりました。1982年にはソロアルバムも発表、さらにジンギスカン解散後はフィル・コリンズやライオネル・リッチーなどの国内外のビッグネームとのスタジオワークやセッションでも定評を得て、作曲業やプロデュース業も軌道に乗っているのみならず、2013年には何とバイエルン州地方議会選挙で保守勢力のキリスト教社会同盟(CSU)から立候補して話題になりました。この選挙は落選に終わり、当面は音楽活動に専念することを表明したマンドーキ氏ですが、自身の移民としての経験や教育問題への熱い思いを携えていずれ政治活動へ再挑戦の可能性もあるかもしれません。
二人目のハンガリー人はこちらの女性、1941年ブダペスト生まれのエディーナ・ポップ(Edina Pop)です。彼女はハンガリーの高校を卒業後、ホテルのディナーショーやテレビ出演など、ある程度歌手としての実績を積んだ上で1969年にドイツにやってきました。彼女の場合はマンドーキ氏と異なり、政府に睨まれての国外逃亡という訳ではなかったのは、1960年代と70年代における政治情勢の微妙な相違なのかもしれません。彼女の場合は1972年にソロ歌手としてユーロビジョン・ソング・コンテストに参加歴があり、この時の曲もラルフ・ジーゲル作品でした。
ジンギスカンではすでに2人が鬼籍に入っています。前述の1993年逝去のルイ様に続く二人目の故人は、左上写真のような見事なスキンヘッドで”グラッツェ Glatze)”(和訳するとズバリ「ハゲ頭」の意味)の愛称でも親しまれたスティーブ・ベンダー氏(1946-2006)です。肺癌にて59歳で他界したグラッツェことスティーブ・ベンダー氏の生前のインタビュー(参考サイト末尾参照)で特に面白かったのは、「ジンギスカンに加入した頃は一日6時間も振り付けの特訓があり、みるみる痩せていって衣装を3度も縫い直すハメになった」という話でした。読者の皆様の中に、健康診断で医師から減量を指示されたのにうまくいかない方がいらっしゃるようであれば、「ジンギスカン」の一連の動画で振り付けを毎日特訓されると効果てきめんかもしれません。題して「ジンギスカン・エキササイズ」(笑)、生活習慣病対策としてオススメです!(でも実際にやってみたらかなり過酷だったりする)
さて、グループの残り2名は、グループ結成当時は夫婦だったので、まとめて紹介します↓。
左上写真はジンギスカンの1980年発表のシングル曲「Rom(ローマ)」のプロモーションビデオからのスクリーンショットで、ご主人のヴォルフガング・ハイヒェル(Wolfgang Heichel、1950年東ドイツ・マイセン生まれ)と奥さんのヘンリエッテ・ハイヒェル(Henriette Heichel、1953年オランダ・アムステルダム生まれ)のツーショットとなっています。奥さんのヘンリエッテはオランダ人で歯科医の娘、しかもフィギュアスケートをやっていたとかで、オランダの中学を卒業したのちフィギュアスケートでも有名なバイエルン州オーバースドルフ(イタリアのカロリーナ・コストナーやチェコのトマッシュ・ヴェルネルなどがトレーニング拠点としたことでも知られる)へ、歯科助手の勉強も兼ねて移住したのだそうです。「ジンギスカン」でのヘンリエッテの華麗なダンスが実はフィギュアスケート仕込みだったとは、今回のコラムのために調べるまで全く知りませんでした!
他方、ご主人のヴォルフガングは高卒後に歯学部に進学するも前期試験不合格で中退を余儀なくされ、バンドマンとしてビヤホールなどでライブ活動を行っていました。そしてある日、ライブ中にマイクが当たって歯が欠けるアクシデントに見舞われたヴォルフガングを、ビヤホールの支配人が歯科助手修行中のヘンリエッテの元に行かせたことが、そもそも二人の馴れ初めだそうです。かくして二人は1976年結婚、1979年には二人揃ってジンギスカン加入、しかしグループが1986年に解散してから間もなく二人も離婚してしまいました。その後のヘンリエッテは音楽から離れスペイン・マヨルカ島へ移住、ファッション業界の仕事を続けていましたが、長いブランクを経て2005年の年末に元夫およびエディーナ・ポップ、そしてハゲ頭ことスティーブ・ベンダーと一緒に、4名でジンギスカン再結成を果たしました。そして、2006年のスティーブ他界で3人となった21世紀版「ジンギスカン」(右上写真)として現在も健在です。
こうして振り返ると、ジンギスカンの6名のうち過半数となる4名が実は移民だったことに気付きます。欧州随一の語学教育先進国であるオランダから来たヘンリエッテはおそらく、インタビューでも訛りがないことから、渡独前からドイツ語がペラペラだったのではないかと推定されます。しかし、南アフリカからダンサーとして渡ってきたルイ、そしてハンガリーから音楽家として渡ってきたエディーナとレスリーの計3名は、ドイツに来た当初はドイツ語が全くできなかったとのことです。実際、ルイのドイツ語はバリバリの英語訛りでしたし、エディーナとレスリーのインタビューは今でも強烈な東欧系アクセントが認められます。まさに移民大国ドイツの真骨頂という感じですが、このジンギスカンというグループにドイツの縮図を見ることになろうとは、神村学園アルプススタンドの演奏を漫然と聴いていただけの頃には微塵も考えか及びませんでした(笑)。
そういえば、同じく高校野球応援の定番曲でもあるベリーニの「サンバ・デ・ジャネイロ」(別称「ブラジル」)がドイツの曲であること(→ブラジルW杯サッカー放送で頻出した甲子園の高校野球定番応援曲)、さらには80~90年代のフジテレビのプロ野球ニュースにおける「今日のホームラン」のBGMもまたジェームス・ラストというドイツ人の曲であったこと(→高校野球応援曲のルーツを探る…またもやドイツ人が支える甲子園!ジェームス・ラスト「バイブレーション」)についても、以前の当サイトで取り上げたことがありました。そして「ジンギスカン」…今大会の神村学園アルプススタンドの演奏は例年にも増して演奏が格段に上達しているようで、ホンモノのラルフ・ジーゲル氏が聴いたらきっと涙チョチョ切れに大喜びすることでしょう。ルイとスティーブの二人が草葉の陰で拍手喝采している姿も目に浮かんできます(?)。今後も甲子園のピンチやチャンスを鮮やかに彩る「ジンギスカン」の名演奏を甲子園で待望し続けたいと思います。
<参考サイト>
Eurovision Song Test 1979 - Dschinghis Khan
https://www.youtube.com/watch?v=eAEUrp2V4ss
(下に紹介する他の動画は全て口パクであるのに対し、こちらの映像は唯一の生歌である点に注目!歌手の声が微妙に上ずっていたり、ダンサーのルイ氏が珍しく振りを間違えるなど、当時の欧州の歌番組では珍しかった生歌のプレッシャーがひしひしと伝わってくる貴重な動画)
Dschinghis Khan - Dschinghis Khan (ZDF Starparade 1979年6月12日放送分)
https://www.youtube.com/watch?v=pzmI3vAIhbE
Dschinghis Khan - Moskau (ZDF Kultnacht 1979年、放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=NvS351QKFV4
Dschinghis Khan - Hadschi Halef Omar (ZDF Starparade 1980年9月7日放送分)
https://www.youtube.com/watch?v=NZX02-gp8Eo
Dschinghis Khan - Rom (ARD WWF Club 1980年放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=BOYZOeUo27w
Dschinghis Khan - Rocking Son of Dschinghis Khan (1981年)
https://www.youtube.com/watch?v=jeFEZ6L5c_U
Dschinghis Khan - Loreley (ARD WWF Club 1981年放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=Bt2htcmvLdI
YouTube - Die Fernsehsendung über die Gruppe "Dschinghis Khan"(MDR「Damals war’s SPEZIAL(”あの頃は”スペシャル)」放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=CUeUps0jESY
(始めの40分余りは過去のヒット曲のVTR映像が続き、バンドの歴史を振り返ることができる。40分46秒頃からはナレーション、44分46秒から仕掛け人ラルフ・ジーゲルのインタビューあり、以降バンドメンバーのインタビューが続く。コラム本文中のラルフ・ジーゲル氏およびバンドメンバーの写真はこの動画より採用)
フランクフルター・アルゲマイネ紙(2014年9月30日):Schlagertexter Bernd Meinunger : Sing mit mir mein kleines Lied(売れっ子作詞家ベルント・マイヌンガー:ボクと一緒にボクの歌を歌おう)
http://www.faz.net/aktuell/gesellschaft/menschen/schlagertexter-bernd-meinunger-sing-mit-mir-mein-kleines-lied-13180595.html
(コラム本文中のベルント・マイヌンガー氏の写真はこの記事から引用)
なお、このコラムの掲載時期は、ちょうど第87回選抜高等学校野球大会とも重なっており、今週のコラムのテーマにフィギュアと高校野球のどちらを採用するか大いに悩みました。しかし、当コラムを執筆中の大会第3日目(3月23日)にたまたま選抜大会の中継を見ていたら、第1試合の敦賀気比(福井)と第2試合の神村学園(鹿児島)の応援席から奇しくも同じ曲が聞こえてきたので、両校に敬意を表して今週はドイツの往年の大ヒット曲であるこちらのグループのこの曲について解説することにします↓。
いかにも70年代な映像で、背景には「友君」などという何語かも怪しげな漢字が見えます。6人組のこのグループ、ご存じでしょうか?これは70年代から80年代前半のディスコブーム時代にドイツで一世を風靡したDschinghis Khan(ジンギスカン)(英語圏および日本ではGenghis Khanと表記)という6人組です。名前はあのモンゴルの英雄から取っており、ここで歌われている曲のタイトルもこれまた同じ「Dschinghis Khan(ジンギスカン)」です。やや年配の方であれば、「♬ジン、ジン、ジンギスカ~ン�♪」というサビ部分に小っ恥ずかしいような懐かしさを憶える方は多いのではないかと思います。現代の高校野球シーンでいえば、今大会にも出場している神村学園(鹿児島)のブラスバンド部がチャンス時に演奏するチャンステーマとして全国的知名度を誇り、特に10年前の2005年の選抜大会での同校準優勝を機に、今やすっかり神村学園の代名詞のような曲となっています。ドイツ人なら知らない人はいないこの曲ですが、日本では神村学園ファンに限らず、これがドイツの曲だということを果たしてどれほどの人が知っているのでしょうか?
ジンギスカンというグループはそもそも、1979年にユーロビジョン・ソング・コンテストという国際歌謡祭に参加する目的で、辣腕プロデューサーのラルフ・ジーゲル氏の思いつきで結成されたのだそうです。中央のダンサーのド派手なパーフォーマンスにメンバー全員のコテコテの衣装というスタイルは、当時としては大いに斬新かつ先進的とされ、後に日本に登場することになる「米米CLUB」の原型を想像させます。また、冷戦真っただ中で海外旅行もままならなかった当時の時代背景を逆手に取り、「マチュピチュ」やら「サムライ」やら「ヒマラヤ」というように、アルバムを聞いているだけで世界を股にかけたような気にさせてくれる異国情緒あふれるタイトル、さらにキャッチーで覚えやすいメロディーにより、ドイツ全土はもちろん世界中にファンを広げていくことになったのでした。
センターポジションを占める「歌わないダンサー」として活躍したのは、南アフリカ出身でバレエダンサーとして渡独して実際にミュンヘンのオペラハウスで踊っていたルイ・ポットギーター(Louis Potgieter)です。参考サイトに挙げた往年の動画を21世紀の現代の視点で見直しても、背は高いわ手足は長いわ…というだけにとどまらない、出てきただけで目を奪われてしまう圧巻のオーラがこの人にはあります。今の時代に匹敵する人はいないのではないかと思われるほど、その抜群のカリスマ性には驚かされます↓。
日本でも「魔王様」「ルイ様」などと呼ばれて親しまれていたルイ・ポットギーター氏ですが、その華麗なるステージ・パーフォーマンスからクイーンのフレディー・マーキュリーを連想した方、鋭いです!実はこのルイ様、あのフレディー様と同じAIDSにより、1993年に41歳の若さで惜しまれつつこの世を去りました。
そんなカリスマ魔王様の周囲を固める男女5名のプロ歌手をさらにかき集めてのデビュー曲「Dschinghis Khan(ジンギスカン)」(1979)は、お目当てだったユーロビジョン・ソングコンテストこそ4位に終わったものの、むしろそれ以降に一気に人気に火がつき、ドイツチャート29週1位というビッグヒットを記録。さらに当時間近に迫っていたモスクワ五輪をイメージして作られたという2曲目のシングル「Moskau(邦題:めざせモスクワ)」(1979年、最高位3位)(ただし西ドイツはこの五輪をボイコット)、3曲目「Hadschi Halef Omar(邦題:ハッチ大作戦)」(1980年、最高位7位)もヒットとなり、これら3曲は今でも日本のカラオケボックスに行くと全機種に収録されており、誰でも歌うことができます!機会がある方は是非チャレンジしてみて下さい↓。
(プレミアDAMより。左が「ジンギスカン」、右が「めざせモスクワ」。なお、CrossoやJOYSOUNDはジンギスカンの他曲をさらにたくさん収録しているので見比べてみて下さい)
上はDAMのカラオケ画面ですが、作詞作曲としてR. Siegel(ラルフ・ジーゲル)(下写真左)とB. Meinunger(ベルント・マイヌンガー)(下写真右)が連名で記載されています。しかし、実際には彼らの作品の多くは曲をラルフ・ジーゲル、詞をベルント・マイヌンガーという役割分担のもとで製作されています。作曲者のジーゲル氏は70年代屈指の”ブーム仕掛け人”として、今風に例えるなら「ドイツ版・秋元康」という形容がピッタリかと思いますが、作詞のマイヌンガー氏も負けず劣らず風変りなプロフィールの持ち主で、何と正真正銘の「農業博士」、しかも「元・ミュンヘン大学付属経済研究所研究員」とも「経済学者」とも言われる身分から作詞家へと転身した個性派です。ジンギスカンの一連の曲が表現する壮大な世界旅行ないし時間旅行を思わせる世界観は、この異色の経歴なればこそ紡ぎ出すことができたのかもしれません。
(左:ジンギスカンの生みの親、ラルフ・ジーゲル。右:ミュンヘンの自宅で幾多のゴールドディスクの前で写真におさまるベルント・マイヌンガー)
さらに他のメンバーも紹介しましょう。これも豆知識ですが、6人組のジンギスカンの中には男女一人ずつの2名のハンガリー人が在籍していました↓。
一人目のハンガリー人はこちらの男性、レスリー・マンドーキ(Leslie Mandoki)です。1953年ブダペスト生まれのドラム・パーカショニストである彼は、22歳だったブダペスト音楽学校の学生時代、政府の学生運動弾圧から逃れるために他の芸術家数名と一緒に1975年に国外逃亡、オーストリアを経てドイツに辿り着きました。そして、ミュンヘンでスタジオミュージシャンとして働いていた際に前述のラルフ・ジーゲル氏に見出されてグループ「ジンギスカン」加入、上の写真にあるような奇抜な恰好で歌やダンスも披露することになりました。1982年にはソロアルバムも発表、さらにジンギスカン解散後はフィル・コリンズやライオネル・リッチーなどの国内外のビッグネームとのスタジオワークやセッションでも定評を得て、作曲業やプロデュース業も軌道に乗っているのみならず、2013年には何とバイエルン州地方議会選挙で保守勢力のキリスト教社会同盟(CSU)から立候補して話題になりました。この選挙は落選に終わり、当面は音楽活動に専念することを表明したマンドーキ氏ですが、自身の移民としての経験や教育問題への熱い思いを携えていずれ政治活動へ再挑戦の可能性もあるかもしれません。
二人目のハンガリー人はこちらの女性、1941年ブダペスト生まれのエディーナ・ポップ(Edina Pop)です。彼女はハンガリーの高校を卒業後、ホテルのディナーショーやテレビ出演など、ある程度歌手としての実績を積んだ上で1969年にドイツにやってきました。彼女の場合はマンドーキ氏と異なり、政府に睨まれての国外逃亡という訳ではなかったのは、1960年代と70年代における政治情勢の微妙な相違なのかもしれません。彼女の場合は1972年にソロ歌手としてユーロビジョン・ソング・コンテストに参加歴があり、この時の曲もラルフ・ジーゲル作品でした。
ジンギスカンではすでに2人が鬼籍に入っています。前述の1993年逝去のルイ様に続く二人目の故人は、左上写真のような見事なスキンヘッドで”グラッツェ Glatze)”(和訳するとズバリ「ハゲ頭」の意味)の愛称でも親しまれたスティーブ・ベンダー氏(1946-2006)です。肺癌にて59歳で他界したグラッツェことスティーブ・ベンダー氏の生前のインタビュー(参考サイト末尾参照)で特に面白かったのは、「ジンギスカンに加入した頃は一日6時間も振り付けの特訓があり、みるみる痩せていって衣装を3度も縫い直すハメになった」という話でした。読者の皆様の中に、健康診断で医師から減量を指示されたのにうまくいかない方がいらっしゃるようであれば、「ジンギスカン」の一連の動画で振り付けを毎日特訓されると効果てきめんかもしれません。題して「ジンギスカン・エキササイズ」(笑)、生活習慣病対策としてオススメです!(でも実際にやってみたらかなり過酷だったりする)
さて、グループの残り2名は、グループ結成当時は夫婦だったので、まとめて紹介します↓。
左上写真はジンギスカンの1980年発表のシングル曲「Rom(ローマ)」のプロモーションビデオからのスクリーンショットで、ご主人のヴォルフガング・ハイヒェル(Wolfgang Heichel、1950年東ドイツ・マイセン生まれ)と奥さんのヘンリエッテ・ハイヒェル(Henriette Heichel、1953年オランダ・アムステルダム生まれ)のツーショットとなっています。奥さんのヘンリエッテはオランダ人で歯科医の娘、しかもフィギュアスケートをやっていたとかで、オランダの中学を卒業したのちフィギュアスケートでも有名なバイエルン州オーバースドルフ(イタリアのカロリーナ・コストナーやチェコのトマッシュ・ヴェルネルなどがトレーニング拠点としたことでも知られる)へ、歯科助手の勉強も兼ねて移住したのだそうです。「ジンギスカン」でのヘンリエッテの華麗なダンスが実はフィギュアスケート仕込みだったとは、今回のコラムのために調べるまで全く知りませんでした!
他方、ご主人のヴォルフガングは高卒後に歯学部に進学するも前期試験不合格で中退を余儀なくされ、バンドマンとしてビヤホールなどでライブ活動を行っていました。そしてある日、ライブ中にマイクが当たって歯が欠けるアクシデントに見舞われたヴォルフガングを、ビヤホールの支配人が歯科助手修行中のヘンリエッテの元に行かせたことが、そもそも二人の馴れ初めだそうです。かくして二人は1976年結婚、1979年には二人揃ってジンギスカン加入、しかしグループが1986年に解散してから間もなく二人も離婚してしまいました。その後のヘンリエッテは音楽から離れスペイン・マヨルカ島へ移住、ファッション業界の仕事を続けていましたが、長いブランクを経て2005年の年末に元夫およびエディーナ・ポップ、そしてハゲ頭ことスティーブ・ベンダーと一緒に、4名でジンギスカン再結成を果たしました。そして、2006年のスティーブ他界で3人となった21世紀版「ジンギスカン」(右上写真)として現在も健在です。
こうして振り返ると、ジンギスカンの6名のうち過半数となる4名が実は移民だったことに気付きます。欧州随一の語学教育先進国であるオランダから来たヘンリエッテはおそらく、インタビューでも訛りがないことから、渡独前からドイツ語がペラペラだったのではないかと推定されます。しかし、南アフリカからダンサーとして渡ってきたルイ、そしてハンガリーから音楽家として渡ってきたエディーナとレスリーの計3名は、ドイツに来た当初はドイツ語が全くできなかったとのことです。実際、ルイのドイツ語はバリバリの英語訛りでしたし、エディーナとレスリーのインタビューは今でも強烈な東欧系アクセントが認められます。まさに移民大国ドイツの真骨頂という感じですが、このジンギスカンというグループにドイツの縮図を見ることになろうとは、神村学園アルプススタンドの演奏を漫然と聴いていただけの頃には微塵も考えか及びませんでした(笑)。
そういえば、同じく高校野球応援の定番曲でもあるベリーニの「サンバ・デ・ジャネイロ」(別称「ブラジル」)がドイツの曲であること(→ブラジルW杯サッカー放送で頻出した甲子園の高校野球定番応援曲)、さらには80~90年代のフジテレビのプロ野球ニュースにおける「今日のホームラン」のBGMもまたジェームス・ラストというドイツ人の曲であったこと(→高校野球応援曲のルーツを探る…またもやドイツ人が支える甲子園!ジェームス・ラスト「バイブレーション」)についても、以前の当サイトで取り上げたことがありました。そして「ジンギスカン」…今大会の神村学園アルプススタンドの演奏は例年にも増して演奏が格段に上達しているようで、ホンモノのラルフ・ジーゲル氏が聴いたらきっと涙チョチョ切れに大喜びすることでしょう。ルイとスティーブの二人が草葉の陰で拍手喝采している姿も目に浮かんできます(?)。今後も甲子園のピンチやチャンスを鮮やかに彩る「ジンギスカン」の名演奏を甲子園で待望し続けたいと思います。
<参考サイト>
Eurovision Song Test 1979 - Dschinghis Khan
https://www.youtube.com/watch?v=eAEUrp2V4ss
(下に紹介する他の動画は全て口パクであるのに対し、こちらの映像は唯一の生歌である点に注目!歌手の声が微妙に上ずっていたり、ダンサーのルイ氏が珍しく振りを間違えるなど、当時の欧州の歌番組では珍しかった生歌のプレッシャーがひしひしと伝わってくる貴重な動画)
Dschinghis Khan - Dschinghis Khan (ZDF Starparade 1979年6月12日放送分)
https://www.youtube.com/watch?v=pzmI3vAIhbE
Dschinghis Khan - Moskau (ZDF Kultnacht 1979年、放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=NvS351QKFV4
Dschinghis Khan - Hadschi Halef Omar (ZDF Starparade 1980年9月7日放送分)
https://www.youtube.com/watch?v=NZX02-gp8Eo
Dschinghis Khan - Rom (ARD WWF Club 1980年放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=BOYZOeUo27w
Dschinghis Khan - Rocking Son of Dschinghis Khan (1981年)
https://www.youtube.com/watch?v=jeFEZ6L5c_U
Dschinghis Khan - Loreley (ARD WWF Club 1981年放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=Bt2htcmvLdI
YouTube - Die Fernsehsendung über die Gruppe "Dschinghis Khan"(MDR「Damals war’s SPEZIAL(”あの頃は”スペシャル)」放送日不明)
https://www.youtube.com/watch?v=CUeUps0jESY
(始めの40分余りは過去のヒット曲のVTR映像が続き、バンドの歴史を振り返ることができる。40分46秒頃からはナレーション、44分46秒から仕掛け人ラルフ・ジーゲルのインタビューあり、以降バンドメンバーのインタビューが続く。コラム本文中のラルフ・ジーゲル氏およびバンドメンバーの写真はこの動画より採用)
フランクフルター・アルゲマイネ紙(2014年9月30日):Schlagertexter Bernd Meinunger : Sing mit mir mein kleines Lied(売れっ子作詞家ベルント・マイヌンガー:ボクと一緒にボクの歌を歌おう)
http://www.faz.net/aktuell/gesellschaft/menschen/schlagertexter-bernd-meinunger-sing-mit-mir-mein-kleines-lied-13180595.html
(コラム本文中のベルント・マイヌンガー氏の写真はこの記事から引用)