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金曜日

Dr.片山晴子

高校野球取材や大食い番組等のメディア出演を行う東京大学医学部医学科卒の脳神経外科認定専門医の医学博士。ドイツ在住。
2015/01/30

自国民をイスラム武装勢力に誘拐されたドイツはどう対処したか…2014年ドイツ人人質事件の場合

先週は上海に関する連載をスタートした当コラムでしたが、ここにきて突然浮上した邦人人質事件の深刻な状況を受けて今回はこちらの稿に差し替えることにしました。これを書いている時点では人質の一人が殺害されたとの表明があり、もう一人の人質が新たな動画に登場したとのニュースが流れていますが、真偽および詳細は不明な点も多く、とにかく人質の方には何としてでも無事に生還してほしいと強く願っております。

ここで私が何を書いても何がどうなる訳ではないですが、今週ご紹介したいのが昨年4月にフィリピンで起きたドイツ人医師誘拐事件です。日本では自己責任論という言葉も見聞きしますが、自己の責任ではなくてもこのような事態に巻き込まれることはいつでも誰の身の上にも起こりうるということ、そして、自国民が人質事件に巻き込まれた際のドイツの対処法の一端を知るということには、意味があると考えます。

事件発生は2014年4月17日。当時72歳(当初74歳と報じられていたが後に訂正)のドイツ人医師とその55歳のガールフレンド(!)の二人は、休暇で訪れたフィリピン南部のスールー海にてヨットを楽しんでおりました。この二人には世界中の海でのヨット歴が20年あるとのことで、彼らの弁によれば今回の事件発生現場は”比較的安全”とされている地域なのだそうです。しかし、そのような”比較的安全”だったはずの海域に、キリスト教徒が人口の9割を超えるフィリピンにイスラム国家を建国しようと南フィリピン(スールー諸島のホロ島・バシラン島やミンダナオ島など)を拠点に活動するテロ組織「アブ・サヤフ」の武装集団が現れ、このドイツ人の2人を拉致誘拐していきました。

(誘拐のあったスールー海と周辺の地図:Wikipediaドイツ語版”Sulusee”より一部をカットして引用)

ちなみに、この医師と17歳年下の恋人は、16メートル長で2本マストの帆船『カテリーヌ』に乗ってパラワン島からマレーシアのサバ州(ボルネオ最北端)に向かう途中でした。上の地図で見る限り、スールー海はミンダナオ島やスールー諸島というフィリピンでは特にイスラムに縁が深いとされる地区、さらにパラワン島、マレーシアのボルネオなどに囲まれた海域で、こうしてみると日本人観光客に人気のセブ島も意外に近いようです。これなら、武装勢力さえその気になれば、セブ島のダイビングツアーもまた安全とは言えなくなります。なぜなら、今回のドイツ人のケースでは、武装勢力は拉致拘束した彼らを500キロ離れたホロ島(スールー諸島の一部)まで30時間かけて高速船で運んだことが後に判明しているからです。ミンダナオとボルネオの間にあるスールー諸島はまさにアブ・サヤフの活動拠点そのものであるのみならず、2000年4月にはこの海域でドイツ人一家3名を含む二十数名のダイビング客が同じ武装勢力に誘拐された事件がありました(この時は何と、カダフィ大佐のリビアが身代金を払って人質釈放となり、ドイツに大きく恩を売ったと言われています)。となると、彼らがそのようないわくつきの海域でのヨット旅行を組んだこと自体、世界を股にかけた豊富なヨット経験が逆に裏目に出たと見ることもできます。

行方不明になってから1週間以上経過した4月26日、彼らのヨットがパラワン島で主なく漂着しているのを地元漁師に発見されました。そのヨットの船内には、この医師のノートパソコンや現金(26000ペソ≒約450ユーロ相当、380ユーロ、180米ドル)が手つかずで残されていたそうです。誘拐した勢力は、船内で目につく現金や金目の物品よりも、人質の方に換金価値を見出したのでしょうか。きっと、誰にも目撃されずに素早く連れ去ることが最優先だと考えたたのでしょう。

その後、しばらく彼らの消息は不明とされてきましたが、8月初旬にこのような写真が突然フェイスブックに公表され、二人が武装勢力「アブ・サヤフ」に誘拐されたということがようやく判明します↓。

(ビルト紙より引用:末尾参考サイト参照)

ドイツ国旗を持った白髪男性と女性…これが前述の医師とその恋人であり、その周囲を武器を持った迷彩服の人々が取り囲んでいます。この写真における人質の男性が、この時点では顔の形も含めて肉付きがまださほどは落ちていないことにひとまず注目していただきたいと思います。

写真後方に写る武装勢力「アブ・サヤフ」はアルカイダとのつながりもあり、今の日本人人質事件で話題のイスラム国に対する支持も表明しているフィリピンのテロ組織です。この当時の報道を読むと、「アブ・サヤフ」が他にも人質を10人ほど拘束しており、そのうち欧州他国の二名についての身代金要求額が一人当たり86万ユーロ(当時の日本円レートに換算すると1億2千万円弱)というドイツ当局者のコメントが出てきます。この欧州他国の二名とは、バードウォッチングのためフィリピンに来て拘束された52歳のオランダ人男性と49歳のスイス人男性なのですが、昨年12月初旬に動物写真家であるこのスイス人男性が自力脱出したことが報じられましたが、もう一人のオランダ人男性の消息や安否は依然不明です。なお、他の媒体には、アブサヤフの元にまだ二人のマレーシア人と一人の日本人が拘束されているという記載があります。この日本人とは、2010年7月16日に拘束された広島県出身の63歳の男性医師のことと思われます(今回は詳しく触れませんので、詳細を知りたい方は末尾参考サイトを参照のこと)。

さて、武装勢力が正式にドイツ人カップルに対する身代金要求を開始したのは10月に入ってからのようでした。彼らはソーシャルメディアや地元ラジオ局DXRZの放送を通じ、「身代金440万ユーロを15日以内に支払うこと」「イラクとシリアにおけるイスラム国と敵対するアメリカにドイツが協力しないこと」の二点を要求しました。Zamboanga市のラジオ局DXRZの放送に登場したのは武装勢力だけではなかったようで、拘束されている当のドイツ人人質自身もまた、電話出演という形で自身の健康状態の悪化や精神力の限界を訴え、ドイツ政府に向けて救助してほしい旨を切々と訴えたのでした。交渉期限とされた10月17日の金曜日は、交渉期限が2時間延長されたり、身代金の一部(104万ユーロ)が支払われたとか、人質がいると推察されたホロ島にフィリピン政府が軍を3000人規模で投入したが発見できなかったとの報道も錯綜するなど、緊迫かつ激動に満ちた「長い一日」となりました。そして、どのような紆余曲折を経たのかは謎のまま、晴れて下の写真の瞬間を迎えた訳です↓。

(左はフランクフルター・アルゲマイネ紙から、右はビルト紙からそれぞれ引用)

人質の二人は結局、10月17日に無事解放されました。ドイツ政府は沈黙していますが、フィリピン当局および武装勢力の証言から、身代金として「百万ユーロ単位の金額」(日本円換算で数億円)が支払われたとドイツの各メディアは報じており、先ほどのスイス人とオランダ人に対する身代金要求金額と比べて少なくとも桁は合っていることから、ドイツの危機対策本部による交渉の顛末がある程度想像できます。そして、上の写真は解放翌日、二人がマニラ空港に到着しドイツ大使館関係者に迎えられる瞬間です。特に右の写真を見ると、男性医師の顔の右半分が紫赤色調のアザを伴い大きく変形しており、比較的直前まで暴行があったことが伺われます。そして何よりも、両名とも上のドイツ国旗の前での写真と比べてかなり痩せているのが目を引き、食料を十分に与えらて来なかったことも確実です。

上の二枚の写真は、10月18日にドイツメディア各紙で報道されたマニラのドイツ大使館内でのショットです。左に座るドイツ人男性は衰弱が強く点滴を受けているとも報じられたので、左の手の甲の絆創膏は点滴処置の跡かもしれません。六か月の長きに及ぶ監禁生活の間、彼らはぬかるんだ土の上でしか就寝させてもらえなかったこと、24時間体制で監視されておりトイレに行くのもひと苦労だったことなどを、人質だった女性は後に証言していました。二人の衰弱が強いとして直ちにドイツへ移送することが不可能と判断されたことから、二人は数日間マニラで療養を続けた後、10月21日にようやくマニラ空港より出国、念願のドイツの土を踏むことができました。長い苦難の歳月を乗り越えた末に、飛行機の窓から郷里ドイツの風景が見えてきた瞬間の彼らの胸の内を想像するだけでも、こちらまで心が熱くなってきます。

以上、ドイツ人医師およびその恋人が誘拐監禁され、半年の拘束と身代金要求や殺害予告などを経て最後は無事救出された事件について、ドイツの各種メディアに公表されている内容をつなぎあわせつつ、ひとまとめに記述してみました。今回の日本人人質事件と比較してみると、このドイツのケースは身代金の金額が二桁小さいこと、交渉期間も(日本のケースの72時間よりもはるかに長い)15日間に設定されていた上、交渉による延長も認められたこと、拘束されたのがシリアではなくフィリピンの武装勢力だったことなど、大きな相違点が色々とあります。身代金の金額はおそらく、(ドイツ人も含めた欧州人は過去に何度も誘拐されて身代金を支払った実績があるのか)相場が出来あがっているということなのでしょう。特筆すべきは、リスクを承知で渡航自粛勧告の出ている危険地域に自らの意思で乗り込んでいった日本人のケースとは異なり、ドイツ人の二人は準前たるツーリストであり、しかもフィリピンにはドイツ外務省からは渡航自粛勧告が当時も今も出ていないことは重要なポイントです。

ドイツ外務省ホームページを見て少なくとも私は大いに驚きましたが、今回の誘拐事件があってもなお、ドイツはフィリピンに渡航自粛勧告を出すつもりはないようです(その割にわれらが日本には未だに「部分的渡航自粛勧告」が堂々と出ている)。このドイツのケースの最大の教訓は、「危険とされていない地域でもテロは起こりうる」ということに尽きます。皆さんは、仮に比較的安全と信じられているリゾート地に旅行に行っていきなりこのような目にあったとして、自国民から「そんなの自己責任だ!」と名指しで非難されたらどのような気持ちになるでしょうか。今回の日本人人質事件はたまたまシリアが舞台ですが、今後のテロというものは危険地域だろうが安全地域だろうが場所を選ばす、いつ何どきあなたの身に襲い掛かってくるか全く予測もつかない…このような時代に私たちはすでに突入しているのだという認識が必要でしょう。

なお、2000年に同じアブ・サヤフに誘拐されて身代金により釈放されたドイツ人一家が、今回の一件で再び脚光を浴び、いくつかの媒体の取材に応じているようです。彼らは過去のインタビューで、「外務省の渡航自粛勧告が出ていない限り、発展途上国でのダイビングを辞めるつもりはない」などと公言していました。旅行好きで有名なドイツ人らしいコメントですが、これではドイツは身代金貧乏になってしまうと、インターネットのコメント欄にはかなり批判も目立つようです。

ちなみに私個人が最も興味を持ったのは、49歳のスイス人写真家がどうやって自力脱出できたのかという点です。人質事件ではこれが「最もハッピーなシナリオ」ではありますが、実際にはかなりの大立ち回りがあったようで、いずれ映画化されるかもしれません。小さからぬ怪我を負いながら保護されたその男性の映像を見るだけでも、機転機知だけでは実を助けることは難しく、体力や筋力も自らの命を守るために日頃から磨いておいた方が良いのではと痛感しています。また、身代金を払うにしても払わないにしても、「解放されやすいケース」が存在することも、同様の事件に関する報道を見聞きする上でおぼろげながら見えてきました。これについては、リサーチを追加していずれ稿を改めたいと考えます。ひとまず今は、拘束されている存命の日本人人質の無事とその一刻も早い解放を心から強く祈り続けたいと思います。


<参考サイト>
Bild.de (2014年8月13日)- Deutsches Paar in Dschungel verschleppt
http://www.bild.de/news/ausland/entfuehrung/deutsches-paar-in-dschungel-verschleppt-37220044.bild.html

シュピーゲル紙(2014年10月17日): Entführtes Paar: Deutsche Geiseln auf den Philippinen sind frei
http://www.spiegel.de/politik/ausland/philippinen-deutsche-geiseln-von-abu-sayyaf-sind-frei-a-997777.html

Frankfurter Allgemeine (2014年10月18日)- Befreite Geiseln erreichen deutsche Botschaft
http://www.faz.net/aktuell/rhein-main/philippinen-befreite-geiseln-erreichen-die-deutsche-botschaft-13216594.html
(ドイツ人人質の二人がマニラのドイツ大使館に到着したという記事)

Bild.de (2014年10月19日)- Deutsche Geiseln auf Philippinen befreit Sie sind zu schwach, um nach Hause zu fliegen
http://www.bild.de/news/ausland/geiselnahme/erster-tag-in-freiheit-38208810.bild.html

ドイツ公営放送ARD Tagesschau (2014年12月6日) - Nach drei Jahren Entführung auf den Philippinen Schweizer Geisel entkommt Abu Sayyaf
http://www.tagesschau.de/ausland/schweizer-philippinen-101.html
(人質のスイス人男性が3年弱に及ぶアブ・サヤフの監禁から自力脱出したという記事)

シュテルン誌(2014年12月22日):Wie zwei Deutsche sechs Monate Geiselhaft überstanden
http://www.stern.de/panorama/als-geiseln-auf-den-philippinen-so-ueberlebten-henrike-dielen-und-stefan-okonek-die-abu-sayyaf-haft-2161335.html
(解放されてドイツに帰国した人質二人の独占インタビュー。動画では二人も顔色や肉付きがかなり戻ってきているが、精神的トラウマの影響は続いている様子)

シュテルン誌(2014年12月22日):Welche Qualen die Abu-Sayyaf-Geiseln durchlebten
http://www.stern.de/panorama/stern-exklusiv-freigelassene-abu-sayyaf-geiseln-sprechen-erstmals-ueber-ihre-tortur-2161322.html
(人質だった二人が、拘束されていた時の生活を具体的に説明している貴重なインタビュー。この記事によれば、二人は一度脱走を試みたが連れ戻されてしまい、さらに酷い暴行を受けることになったという)

日経新聞(2010年7月19日):広島出身の男性、フィリピン南部で誘拐 武装集団に
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1800P_Y0A710C1CC1000/
(この男性医師はイスラム教に改宗しており、フィリピンのミンダナオ島で開業していたが数年前にパングタランに移住、海に沈んだとの説がある旧日本軍の財宝を探すトレジャーハンターになっていたという)

ドイツ外務省ホームページ:渡航自粛勧告
http://www.auswaertiges-amt.de/DE/Laenderinformationen/01-Reisewarnungen-Liste_node.html
(シリア・イラクが渡航自粛となっているのは言うまでもない)
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